神威杏次 official blog

【俳優・映画監督・脚本家 カムイキョウジのモノローグ】

重~い映画が好きな理由

 ず~っしりと重い映画が大好きだ。

自分に限らず、ストーリー的に、結末的に「救いようのない」映画が好きな人の心理は?などと考えてみて…ひとつの答えに至った。

 

好きな「重い映画」はいくつもあるけど、

中でも、特に好きな映画がある。

「ドッグヴィル」。

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精神的に壊れた人の言動・行動の動機は、すべて「自己正当化」であり、その方法論は「他者への攻撃」。当人には、その言動や行動がみっともない(=邪悪)という自覚がなく、むしろ「正義」だと信じて疑わない。

 

「道徳」を振りかざし他人を傷つける。自ら課した道徳感に縛られるが故に、逆に、邪悪な行動を起こす登場人物。「偽善」という悪魔。そんな「人間が普通に持つ邪悪」を、見事に表現してくれている。

 

「平気で嘘をつく人たち」と云う心理学の本がある。

この本は、さらに突っ込んで、邪悪、偽善、の原因=ナルシズムであると書いている。なるほど、納得。自分への愛を守るために、他者を攻撃する。本の最後に、訳者が「善とは何か、悪とは何か、を考え、そこに安易に答えをみつけようとすると、宗教的、カリスマ的、組織的な結論にたどり着いてしまう危険性がある。むしろ答えにはたどり着かない方が良くて「そのことについて考え続ける事」が答え」…だと教えてくれている。それも、まったく以って納得。

 

「ドッグヴィル」も「平気で嘘をつく人たち」も、どちらも、ずっしりと重い。この重さを単純に「暗い」と捉えて、「面白くない」と短絡的に評価する人もいるが、それも、映画の中に、本の中に強引に答えを探そうとするからそう感じるのだ。

 

ハリウッドの痛快アクションのように、答えがハッキリ見えないとスッキリしない、という人が観たらそう感じるのも無理はない。

 

なにせ「答えを出さないで、考え続けるのが答え」なわけだから。

 

そこで、冒頭の…

「どうして、そんな救いようのないストーリーの映画に魅せられるのか?」という疑問。

 

このような映画で、登場人物が邪悪になる原因としてほぼ共通して描かれる事象がある。=「愛情の欠落」。

 

上記のような、人間の邪悪性は、すべて「愛情の欠落」によって生まれると思う。逆にいえば…完全に壊れた、邪悪な人間でも、誰かが愛情を注げば、愛情を受ける機会に恵まれれば、そこから脱出できる(あるいは、そうならなかった)ということだ。

 

人間の最大の不幸は「孤独」であり、仮に、生涯に於いて孤独を回避し、何かしらの愛情を受け続ける事ができたら、その人の人生は充分幸せ…と言ってもいい。

 

つまり、愛情の欠落によって邪悪になってしまった登場人物を観る事によって、逆説的に、「愛が人間を救う」という事実を再確認する。だから、暗い結末を迎えた映画でさえ、いや、そういう映画だからこそ、この「愛がすべて」的なベタな結論を、照れることなく、受け入れることができて、当たり前に思っていた自分の人生の有り難さなんてものも感じることになる。

 

そして、絶望の中からわずかな希望を見出す…、

絶望の中にこそある希望がリアルで、救いようのないバッドエンドの中から、その闇の彼方に一点の灯りを見出せれば、その結末は、もはやハッピーエンドに変わる。

 だから、僕にとっては「絶望」と「希望」はワンセットで、同義語に近い。

「希望とは絶望ありきで生まれるモノ」なのですね。それが僕が重い映画を好きな理由ということになります。