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神威杏次 official blog

【俳優・脚本・演出家 カムイキョウジのモノローグ】主に、好きな映画の話に絡めて、神威が意味不明なことを書いているブログ。◆映画の話はネタバレご注意◆

歳をとってからの屁理屈は最低である

性格の悪いジジイが若い娘とひたすらセックスをしたがる気持ち悪い映画。まったくお奨めできないけど、それでも、それなりに教訓はあるもので…。 

 「バスルーム 裸の2日間」

(原題:「Madrid 1987」2011年スペイン)

 『いかにも偏屈そうな推定60代のジャーナリストのジジイと、彼に文章のアドバイスを受けにきた20歳くらいの女子大生が、全裸で狭いバスルームに閉じ込められてしまう』お話。

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いきなり、レストランでウエイターを侮辱するシーンから始まり、このジジイ=ミゲルが、プライドとコンプレックスの塊であることがわかる。

 

そこに若く美しい女子大生=アンジェラが登場。彼に自分の書いた文章のアドバイスを受けにやってきた。

 

ミゲルは最初からアンジェラの体が目当て。

「君の作品には興味はないが、カラダには興味がある。」

 

彼の話は「持論・説教・屁理屈」か「セックスさせろ」の二種類だけ。

 

ジジイの無理難題を、困惑しながらも受け取り、割とあっさり裸になる女子大生。「新しい世界へ一歩踏み出す」想いでミゲルに会いに来た…みたいなことは最後のほうで言っている。

 

ジジイ主導で進んだ展開は、バスルームの扉が開かなくなり、全裸で二人っきりになったところから途端に様相が変わる。

 

両者が全裸になることで、醜い老体を晒すジジイと、若さ・美しさが一段と強調された女の間で優位性が逆転。

 

アンジェラの目線は、あからさまにミゲルを見下しはじめる。

ほぼ同情の目。

この突然の豹変は、完全に映画の意図でしょう。

 

人生でいろいろ「持ってきた」ジジイ。

若さ以外はなにも「持っていない」女子大生。

そこで、唯一の持ち物(若さ、美しさ)で女子大生が勝ってしまう構図。

 

ミゲルはそこでも、言葉(屁理屈)で優位を取り戻そうとしますが、アンジェラはもう余裕。

 

流れから、二人はついにセックスをするのですが、目的を達したジジイは「屁理屈」と「セックスしたい」から「セックスしたい」がなくなって「屁理屈」しか残らない会話になってしまい最悪に。

 

ついにアンジェラはキレてしまいます。

 

「あなたは過大評価されている。」と言われたら「過大評価されたものだけが文筆で生計を立てられる。」と言い返す。あくまでプライドを崩さないミゲル。

 

2日後、無事にバスルームが開いて、女子大生はさっさと帰宅。

 

映画終わり。

 

いや、本当は、原題からしてもマドリッドの当時の世相を皮肉った社会風刺劇なのだろうけども…。

 

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ジジイは最初から最後まで感じの悪い男で、まったく感情移入できないのですが、二種類の会話のうち「セックスしたい」モードの時は、ちょっと可愛くて憎めなくなる瞬間がある。

 

もし「屁理屈」がなく100%「セックスしたい」会話しかしなかったら、もっとストレートにエロ親父であれば、もしかしたら魅力的な人間に思えたも知れません。

 

全編、二人の会話が延々と続くのですが、その間、心が噛みあった会話はひとつもない。唯一、心が通じた(ように見える)のは…セックスしている時。そこだけ。

 

やはり、ほぼ別の生き物である男と女の、唯一の共通言語…か。

 

正も負も、すべてを吸収・消化して輝く未来へ踏み出す若者と、いつしか余計なプライドとコンプレックスだけが残った老人。

 

持つ者と持たざる者。

なにかを持つと、つい誰もがやってしまう「傲慢の罪」。

 

肩書だの成功だの、なにかしらの看板に頼っていると男は「全裸になったとき」に醜態を晒す。

 

やはり大事なのは人間性。

 

…というテーマだと思えばわかりやすい。

 

女はきっと、老いた男の元に「なにかを確かめに来た」に違いない。

 

誰もが必ず失くしていく若さ、そのど真ん中にいる自分。

どこか清々しい表情で、未来へ向かって歩くアンジェラの表情を煽り気味のカメラ位置で捉えて、映画はエンドロールに向かう。

 

全編の80%を全裸で演技するマリア・バルベルデという女優さんが美しいです。

 

同じく80%は、ジジイの汚い裸で相殺されてしまいますが…。