神威杏次 official blog

【俳優・映画監督・脚本家 カムイキョウジのモノローグ】

「俺に言わせりゃ」

 「俺に言わせりゃ」って変な言葉だ。

 最初が一人称で「俺」なのに「言わせるとすれば」と続くもんで、じゃ言わせてるのは誰だとなるんだけど、実際は誰も意見してくれなんて頼んでないわけで。

 訳してみる。

「私に意見させていただくならば」

…そんなに遠慮がちではない。

「私に意見を言わせると誰かが言うならば」

…まどろっこしい。

「言いたくないけど言うならば」

…いや、物凄く言いたそうだからそれも違う。

 いかにも頼まれたから仕方なしに言うような姿勢を守りつつ、実は、めっちゃ主体的に文句を言う時の枕言葉。

 うん、そもそも設定が不自然だから変に聞こえるのですね。

 しかしこの言葉、本当に発言力や影響力のある人が何か言うときにはまず使わない。どちらかというと、低所得層の中高年か、逆に、若さ以外に何もない若者、つまり社会的弱者が政治とか社会とか自分ではどうしようもない上の方の出来事に対して、言っても仕方ないと知りながら思いのたけをぶちまける時に使う。言葉の勢いとは裏腹に、思い切り下から上なのです。

 それでいて「普段は俺はそんなことに興味もねぇけどよ、意見するのもアホらしいけどよ、この際だから言ってやろうか?」と、安酒をあおりながら空元気に強がっている感じが「俺に言わせりゃ」の真骨頂。そう、かなり情けない強がりではあるのです。

 ちなみに、映画やドラマ的な発想で言うと、言葉ひとつでその人の社会的立場や性格が伝わるセリフとして「俺に言わせりゃ」はかなり秀逸。脚本にそのセリフがあれば、服装や風貌まで目に浮かびます。

 …と、ここまで「俺に言わせりゃ」をディスっているように聞こえるでしょうが、逆なのです。実は決して嫌いじゃないのです、「俺に言わせりゃ」が。特に最近はその気概が大事だと感じている。

 今のネットやテレビ…洗脳装置にまみれて、そこで見かける情報や考えをなんでも真に受けて、全員で誰かを叩いたり集団ネットリンチに加担したりする風潮や、芸能人のなんてことない行動や発言を「神対応に称賛の嵐!」などと必要以上に持ち上げて賛同している風景のほうが、よっぽど気持ち悪くて好きではない。

 そうそう、あの「神対応」「称賛の嵐」的な記事と、そこに「イイね!」「シェア」が集まってる感じが本当に気持ち悪くて嫌いなのです。印象操作…という言葉がアタマをよぎるのです。誰かの思惑で「はい、この人を持ち上げましょう」「この人を落としましょう」なんて号令にみんなが追随しているイメージ。

 数年前からSNS社会が過熱、誰もが広告力を有し、ネット上での発信力に限っていえば、個人が決して弱者ではなく強者になってしまう瞬間があるということ。そこに気づかないままいろんな事件も起こって。そのコトの重さにみんなが気づきだし、急激に熱が収まってきているのが今の状況。

 強さは劇薬となる。劇薬には禁断症状が伴う。そこにみんな、まだまだ慣れてない。

 それに比べたら、ネット・リテラシーが低かろうが、それ故に、常に弱者の立場から動くことなく、自分の気持ちに正直に「ふざけんな」と叫んでいる「俺に言わせりゃオヤジ」のほうが遥かに潔い。

 強がりでもいいから、自分の考えや生き方を守る気概は大事だ。武士は食わねど高楊枝…が、ウチら世代の美学でもある。

 リアルとネットの境界線はまだまだ根強い。
   僕らは、さらに一段階、成熟したネットやSNSとのつきあいかたを模索していくのでしょう。時間と血を流しながら。