「因果応報」って、ありますよね。
ほんと、不思議なほどに、自分のしたことが自分に帰ってくる。
ただの偶然じゃなく、なにか根拠があるに違いない…などと考えた結果のお話。
例えば、スポーツの世界で、中堅選手と若手選手がいるとします。年齢は、仮に、若手=22歳、中堅=32歳、としましょう。若手選手=A君の本音は「このオヤジ、その年齢でその程度かよ。」と、内心、中堅選手をバカにするとします。
この時点で、その若手選手が「野心家」であり「向上心」が強いことと、彼の中に「他人との比較により得られる優越感」が大きく存在しているのがわかります。
おそらく「自分がどう見られているか」が気になる=周りの目、評価に過敏、自意識も強い方だと思われます。礼儀なんて二の次です。
10年後、A君も32歳。すっかり中堅選手となり、当然、カラダも気持ちも昔ほどの張りが無くなってきます。若手と混じって練習するのもさすがにキツクなってきました。この10年で、それなりの実績は残してきましたが、世の中、すべてが思い通りにはいかないものだ、という現実も知りました。
ある日、若手に追い越されたとします。
そこでこう思います。「くそっ。全盛期のオレならこんな奴には絶対負けないのに。悔しい…。」ここでやはり「他人と比べることにより去来した劣等感。」に苦しみます。
当時の自分のように、年長者に対して敬意を表さず、内心バカにするような若手をみると、その心境が手にとるようにわかってしまう、なんせ自分がそうだったから。
故、要らない「悔しさ」や「敗北感」に苛まれます。…「因果応報」成立。
かたや…同じく若手選手・B君がいるとします。
彼は、A君とは正反対に、年長者には敬意を表し蔑視などしないできた大人です。そんなことより、純粋に「自分は自分」と、他者との比較論にはあまり興味はありません。そんな偉い奴、そうそういませんが、いるとしましょう。
10年後、やはり、体力的な衰えを感じだすと同時に、後輩選手の育成に生き甲斐を見出します。若手が自分を追い越すのは当然のこと。むしろ嬉しく、若手が実際に自分の事をどう思っていようが、そんなこと気にならないから、そのおおらかさに周囲が「この人は信頼できる」と慕ってくる…という好循環。良い方の因果応報が成立。
この二人のケース、何が違うんでしょう?
重要なポイントは「本人以外は何も変わらない。」ということです。
A君がいる環境が特に殺伐としたグループで、B君がいる環境が特にほのぼのとしたグループというわけではありません。当時のA君タイプの、先輩を先輩と思わないような
とっぽい若手も、当然、B君の周りにもいるんです。
違うのは…本人が持つアンテナなんです。
人間は、個々にそれぞれのアンテナを持っていて、アンテナが捉える周波数って、生涯一定じゃないかと僕は思います。
つまり、A君が若手時代に「このオヤジ」と思ったアンテナは、10年後、若手が「このオヤジ」と思う周波数を捉えてしまうんです。
かたやB君のアンテナは、その周波数を捉えないんです。
B君の場合なら、「先輩には敬意を表すべきだ。」と発信したアンテナは、10年後に同じ周波数を捉える。
仮に、A君が10年後に誰かの「先輩には敬意を表すべきだ。」という周波数を受けたとしても、それはA君の中では「とりあえず年上だし、適当にゴマすっときゃいいや。」と曲解して受信してしまう。
逆にB君は、悪意のある周波数さえ、良い意味に曲解して捉えてしまうかも知れませんが、だとしても、B君の精神状態を脅かすものには成りません。むしろ「誰かに陰口を叩かれても気にしない大きな人」という印象を与えて、株を上げるでしょう。
じゃあ、A君が10年間のうちに自分の過ちに気づき、10年後に改心して「ひねくれた先輩」ではなく「慕われる先輩」になっていたとしたら、因果応報にはならないじゃん?と思うかも知れないけど、その場合も、「くそー悔しい」とグレるか、「若いから仕方ない。」と流すか、感じ方やその後の態度が変わるだけで、そもそも、その周波数を捉えて心を痛めていることに変わりはありません。
そこで、その気持ちを表に出さずにふるまうことが大人で、普通の人はだいたいそんな感じです。内心穏やかじゃないけどもグっとこらえて笑ってる。それが普通の大人。
ただ、どうせならそんな苦しみを味わわず、最初からB君のように生きたいものですよね。
そう考えると、因果応報とは「起こるか起こらないか」ではなく「感じるか、感じないか」という類のもの。「幸せとは、成るものではなく、感じるものだ。」なんて歌詞の歌もありましたけど、まったくその通りなのです。
「人間のアンテナが捉える周波数は、生涯一定」
「因果応報は(個々の中で)必然的に起こる。」
要は、気持ちの持ち方次第。
だから、感じないでおこうと思えば感じずに済む事。
ただ、悪い事が起こった場合に、当面の相手を恨んだり、運が悪いと嘆いているよりは、因果応報だ…と思って自分自身を顧るほうが、おそらく、人間の生き方として正解に近づくのは間違いない。