ハンドボールの再試合が物議を醸している。
アジア・ハンドボール連盟の会見をテレビで観た。あの、ターバン巻いた、連盟のお偉いサンの会見。そこには「あきらかに不公平な判定だった事実」に対する負い目など微塵も感じさせない徹底した「自分たちの真実」が存在するようにみえた。
つまり、事の発端には言及せず「日本は法を守らない」と言うのが、彼らにとっての唯一の真実。
僕らからみると、有り得ない、頭おかしいんじゃない?くらいに信じられない事。しかし、彼らの中では、自分たちが悪い事をしたという意識はおそらく皆無。
人間同士って、基本的にわかりあえないモノだとつくづく思う。
いや、別に、嘆いているわけではなく、それが当たり前なんです。普通のこと。
前にも書いたけど、人間って個々に周波数の違うアンテナを持っていて、全く同じ環境で、同じ事象に遭遇しても、そこで感じるすべての事は、個々によってまったく違う「真実」になる。
「真理はひとつ」だけど「真実はいくらでもある」。
ひとりひとりに、別々の「真実」があると思ってていい。
そこで「どっちの真実が正しいか」なんて論議は無駄。
どっちも真実なんだから。
今回のハンドボールの件なら…スポーツの世界なら、最終的には統一した真実を認定する必要があるから、第三者の客観的意見をまとめて「賛成多数=真実」と判断してかまわないんだろうけど。
僕ら日常の人間関係に於いては、特定の真実にこだわりすぎると、なにかと弊害を招く。
「人間同士、話せばわかりあえる」なんて幻想を捨てない限り、いつまでたっても、事あるごとに自分の事を棚にあげて他人に責任転嫁する人になってしまう。
なぜなら、自分のアンテナで勝手に判断した基準を他人に当てはめて見ているわけだから、結論として「自分は正しい」「あの人が間違ってる」という答えに至るのも当然のこと。
他人の言動や行動に、有り得ない、信じられないと怒ったり、イライラしたりする。
恋人同士で喧嘩になり「どうして言ってる事がわからない?」とお互いに感じ、最終的に「こんな人だとは思わなかった。」と、相手を蔑視して別れに至る。…馬鹿らしい…。
「人間はわかりあえない」
それはもう「そういうもの」と「前向きにアキラメる。」
事が大事。
増してや、男と女なんて別の生き物だと思ってて正解で、犬と猫が会話してるようなものだから、必死にお互いの鳴き声のニュアンスを読み取って「なんとなく、そんなことを言いたいらしい。」程度の意味を汲み取るのが精一杯。それが普通。
とはいえ、
人間同士、気持ちが通じる事は良くある。
それを以って「わかりあえる」事がある。
もしかしたら、出会って一瞬にしてわかりあえてたものが、つきあいが長くなるにつれ、逆に、わかりあえない…と感じるようになってしまう。?
そんな言い方が正しいのかも知れない。
じゃあ「なんでわかりあえないと感じるのか」と考えると、それは「言葉なんてものがあるから。」
人間にとって「言葉」がいかに弊害を生み出しているか。なまじ言葉なんて伝達手段があるがために、「話せばわかる」なんて幻想が生まれる。
もし、犬や猫が人間の言葉をしゃべれるとしたら…、
可愛がっている飼い犬に「メシまだかよ。早くしろ、腹減ってんだよ。」なんて上から目線で言われた日にゃ…。世の中の「犬好き」「猫好き」な人は半分以下に減少する
だろう。もし、人間が、本音でしか喋れないとしたら、頭で思ったことがすべて自動的に口に出るとしたら、「はじめまして。思い切り禿げてますね。」なんて挨拶が普通になってしまい、人間関係なんて瞬く間に破綻するだろう。
気持ちを、真意を伝えるという意味においては、いかに言葉が無力か。なまじ「話せばわかる」なんて思って言葉に頼るから、言葉は、無力を通り越して害となる。
犬と猫の会話でいえば、なんとなくしか理解できない「ワン…」「にゃー」「くぅん」なんてニュアンスを、相手を思いやったり尊重する気持ち、大事に想う気持ちで受け止めれば、実際に言葉の意味がわかった場合以上の、気持ち、真意が伝わる事になる。
「相手にわかってもらう事、相手をわかる事を望んでそこに期待する」から、無闇に傷つけあう事になる。
良き答えを導き出したいなら、無駄なことには期待せず、余計なことには目をつむって、ひたすら「真意」だけを汲み取ろうとするのが正解。