『狐は多くのことを知っているが、ハリネズミはただひとつ大事なことを知っている。』
この有名なギリシアの古い詩片は、現代では、キツネとハリネズミの「二つのタイプ」と解釈されて、主に経営学、帝王学として、ビジネス指南書などで引用されています。
<広告>
「キツネは柔軟な知性、ハリネズミは堅い信念。さて、どっちが大事?」みたいな事になってる模様。
それはきっと、哲学者のアイサイア・バーリンが著書「ハリネズミと狐」で、そのような引用の仕方をしたから…みたいです。読んでないので知りません。
おそらく、バーリンさんは「元の詩の真意はさておき」という前置きの元、オリジナルで「二つのタイプに分類して考えてみると…」という作業をしたに過ぎないと思うのですが、まるで、バーリンが書いたことが元の詩の正しい解釈であるかのように曲解されています。
例え話として、ものすごく都合よく使われているだけの感があるんですね。実際、人によって、まったく正反対の結論に至ったりしてますし。キツネが良いとかハリネズミが良いとか。それはそれで、良いお話で、問題の最重要ポイントをわかっている人が勝つ…という教訓だとしても納得はできるので、特に文句はありませんが…。
ただ、本来の詩には、もっと違う真意があるに違いない。
だって、そこいらにあるビジネス指南や自己啓発本のために使われちゃったら、それは「詩」としてはどうかと。なにより「面白くない」ですよね、そんな当たり前な意味の詩。詩だけに、もうちょい深いはずなのです。
====
詩の本質を探るのに、ヒントになる短編小説があります。
フェルディナント・フォン・シーラッハ
『犯罪』の中の短編
「ハリネズミ」
◆あらすじ==
カリムは、スラム街に住む犯罪一家の末っ子。他の暴力的な兄たちと一緒にされ、周囲からバカにされていたが、実は、カリムは高い知能の持主で、学校の試験でもわざと答えを間違えて点数を調整しているほど。
ある時、兄Aが強盗事件の被疑者として逮捕された。裁判に証人として出廷したカリムは、兄弟全員の顔がそっくりであることを利用して検察をかく乱。挙句、もうひとりの兄Bを犯人だと主張する。主張は認められ、兄Aは釈放された。代わりに兄Bが逮捕されるが、兄Bには最初からアリバイが用意されていて釈放。当初の目的通り、兄を救うことに成功する。
=======
窮地に追い込まれている兄を救うために、カリムが考えるべきことは「兄の無罪を主張すること」ではない。とにかく「有罪の立証を阻止すること。」
自分や兄Bまで、その後、世間から何を言われるかわからない。体裁を捨て、正義や道徳さえ敵にまわしてでも、カリムにとって最も大事な何かがあった。
この、偽善ならぬ「偽悪」な感覚は、短編集『犯罪』全体に流れるテイストでもあります。
一瞬、話がそれますが…、
僕は、先日、某・芸能人がクスリで二度目の逮捕になり「尿でなくお茶を入れた」と主張して不起訴になった時、この短編を思い出しました。そんなことを言って裏目に出たら、世間でどう言われるかわからないんです。お茶を入れるなんてあり得ないから。でも、そんな無茶苦茶なことを言ってでも、守るべき「何か」が、飛ぶ鳥さんの中にあったのだと感じました。
小説のカリム同様、いろんな意味でギリギリの「防御」だったのかも知れません。
====
ハリネズミって、警戒心が強く臆病な動物らしいです。自分から針を刺しに行くこともないそうです。
それでも、ハリネズミの背中には「生き抜くために」あの針が必要なのです。
最も大事な
守るべき
なにかのために。