※ネタバレ改訂版(2021/2/8)映画の結末に触れています。
「スモーキー・アンド・ビター」sideAの脚本展開は、起承転結の転までは普通の物語展開で進みますが、転から結に向かうあたりで、定石から外れた「あるいびつな方向」へ向かわせています。
そんな「いびつな脚本展開」の意図を…。
ご興味ある方はおつきあいください。ややこしいお話になるので、興味が薄い方は以下の== から==の間は飛ばして下の==まで飛んでください。
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「ハードボイルド」とは、ひとつには文体のことです。
起こっている事象を「批判を加えず」淡々と描写する手法です。つまり、一般的に見て「悪い人が悪いことをしているお話」を「この人は悪い人で悪いことをしています」と見せるのではなく、ただ「この人がこんなことをしています」と見せるということです。そこに道徳はなく善悪の定義もありません。
「悪い人にも悪い人の事情があるんだから、そこを理解してやってよ」ということでもありません、その文だと、最初から「悪」があることになります。そうではなく、そこに 個々の人間がいるだけです。
例えば「普通の」脚本ならこうです。
パターンA 正視点
①正義が悪の街へ入り込む。
②悪に囲まれ、正義がピンチに陥る。
③主人公(正義)が覚醒し、悪をやっつけ正義の仲間を助ける。
④悪は反省し、正義が助かり喜ぶ。めでたしめでたし。
普通ですよね。「スモーキー・アンド・ビター」をこの流れの脚本にしようと思えば、もちろん簡単にできます。あそこですっかりピンチに陥った中川ミコを工藤(俊作)さんが助ければいいわけですから。一度は撃ち殺したと思わせて、実はそれはお芝居で、自分が正義であると思いだした主人公が、気を許し合っていた悪の親玉を断腸の想いで逮捕する。悪も反省し、舞台となる牧場に警察が到着するラストシーン…とすれば、映画は、とても普通に「わかりやすく気持ち良く終わる」映画になります。ハリウッドなら間違いなく、そのように脚本改訂させられるでしょう。
ただ、そうはしませんでした。本作では、上記③あたりから「えっ?」という展開に向かいます。
その理由の前に、じゃ、上記の展開を逆の視点(上記の「悪」としている人たちの目線)に変えてみたらどうなるでしょう。
パターンA 逆視点
①自分たちの大切な場所に、関係ない奴らが入り込んできた。
②奴らを傷つけずに帰し、ここでの安泰な生活を守りたいと頑張る。
③しかし、形勢を逆転され、叩きのめされてしまう。
④無念。バッドエンド
ひどい話になりますよね。じゃ、これを「気持ちの良い普通の物語」に変えるとしたら、
パターンB 逆視点・改訂版
①自分たちの大切な場所に、関係ない奴らが入り込んできた。
②奴らを傷つけずに帰し、ここでの安泰な生活を守りたいと頑張る。
③形勢を逆転されピンチになるが、警戒していたよそ者が実は良い奴で邪 魔者をやっつけてくれた。
④この街は壊されてしまったが、また新しい街へいってイチからやり直せばいい。
希望の話に変わりました。では、この流れで正視点に戻してみます。
パターンB 改訂版・正視点
①正義が悪の街に入り込む
②悪に囲まれ、正義がピンチに陥る。
③主人公が正義をやっつける
④めでたしめでたし。
ハイ、むちゃくちゃな話になりました。希望の話が、視点を変えるだけでむちゃくちゃな話になるのです。あるストーリーが視点を変えることでまったく別の話になるのは脚本の醍醐味です。ある事象をどこの視点から見せるか?のチョイスがキモなわけですから。
「スモーキー~」の脚本は、主観を上記のような複数の視点に飛ばして混在させているのです。通常の映画でマストとされている「観客が感情移入できる存在を作る」作業をしていません。
映画のラストが爽快に感じられるのは最後を「パターンB・逆視点」で終わらせているからです。
『正義(とされているもの)と悪(とされているもの)を、フェアなスタンスで混在させて描く』のが本作の大きな目的です。ハッピーエンドもバッドエンドも混在しています。どちらかに決めつけたくなかったからです。
ただ「そこで起こっていることを見る」のが「スモーキー~」の正しい鑑賞法です。そして、その世界で生きる、個々の人間のイキザマをただ感じてほしいのです。
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普通ってなにか、定石ってなにかというと「普通こうなるであろう」「こうなったらカタルシスを得られる」展開のことです。それは主に「勧善懲悪」にはめ込むことで成立します。勧善懲悪とは、考え方というよりは「物語の手法」だと認識していますが、
「道徳を盾にした過剰な正義」が、僕は大嫌いです。正義の大義名分をふりかざしたときに人は最も残忍になる。正義感ほど怖いものはないことは、昨今のコロナで世界中の人が共通認識として感じたことですよね。僕個人は昔からブログなどに書いてきたことですが。
ハードボイルドにとって大事な精神は「許すこと」です。「罪を憎んで人を憎まず」です。そして、安易に批判をするでもなく、ただただ「この人はどうしてこんな哀しい目をしているのだろう」と、思考することです 。
肩書やその立場に沿った「それらしい行動」ではなく、いま、目の前にいる人間との信頼関係、会話、相手の目の奥に潜む想い…を汲み取ること。「人間同志の対話と、そこから生まれる信頼」が大事な場合があります 。頭で理性的に考えた行動よりも、瞬間「今、こうしたい」と感じる感覚に従うことで殻を破れる場合がある。
それは、結果「間違い」を誘発するかも知れません、いや、きっと間違いが起こります。それでも、主人公が、最後に「最も信頼すべき自分自身の視点」を選び行動を起こす。その結果の責任もまた、今後、背負っていくことになる。ただ、それによって、ひとつ大事ななにかを得ることができたなら、果たしてその行動を間違いだと決めつけることができるのでしょうか。
随分と長い間、孤独で、誰かと笑いあうこともなかった人間が、短い時間ながら共感を感じた戦友を得た瞬間。腹の底から笑いあえた瞬間を、誰が批判できるでしょうか。
人生の選択に、正しいか正しくないか、合っていたか間違っていたかなんて、実はさほど意味がないし、答えでもない。人間は、自分の感覚で選んだ「道」を、選んだからにはまっすぐ進んでみるしかないのだから。
バカで愚かで、だから憎めない人間たちが、当然のごとく間違いを犯しながら、それでも這いつくばって生きていく。
Life goes on、それでも人生は続く。
『スモーキー・アンド・ビター』大阪~東京