幻肢痛、というものがある。
例えば、事故などで左手を切断した人が、ないはずの左手に痛みを感じる。
損傷のない部分が痛むのは、おそらく神経であり、神経から「痛いぞ」信号を送られる脳。その情報を遮断するのが、神経ブロック注射。
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wikiによると
「詳しい原因は判っていない。脳内にある体の各部位に対応するマップが、その部位を失ったにもかかわらず更新されないことが影響しているのではないか、という説がある。」
「痛みを感じているはずの部位は実際には失われている為、痛み止めの薬や麻酔などは当然のごとく効果がない。」
wikiのそんな記述を読んだ時、医学的な話とはまったく違う方向に発想が移動した。
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なんだか、人間の日々の悩みや苦しみの本質を説明されているように聞こえる。
以下はいわば「幻視痛」の話になる。
「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。」と言ったのはオスカー監督になったときの、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥさん。
時には失うことを避けられないもの…おカネであったり、チャンスであったり、夢、恋人、そしてなにより、すべての人間がもれなく失っていく…若さ。
それは逆にいえば、人が頑張るための動機。
手にいれたいという願望、手にいれたら失いたくないと思う恐怖。
それが力になる。
喪失と戦い続けるのが人生ですね。
確かに、持っているものが痛むのであれば、なんとか手はあるよね。でも、すでに失くした部分が痛むのは、もうどうしようもない。そしてめちゃ辛い。
恋人と喧嘩しても、次に話す機会があれば、フォローもできる。でも、別れた後じゃどうしようもない。
発表したなにかしらの作品は、制作中なら、どんなに苦しくても、いくらでもなんとでもできるけど、世に出した後は、その瞬間から、自分の手を離れて独り歩きする。
すべては当たり前のこと。
僕らができるのは、ただ、受け入れること。
そして「持っているうちに」なんとかしなきゃいけないという話ですな。今、持っているモノを大事にしなきゃいけない。
でも「持ってるとき」は、そんなこと考えもしないんだ。
人生って儚くできてるね。
彼女とケンカしてる最中?…悪いこといわないから、意地はらないですぐに謝りなさい。