人生で「山が動いた」と感じた瞬間が何度かある。これは、当時33歳の神威の「ある闘い」の記録。
『電話の主は、日活のプロデューサーY氏だった。「神威さん、来年のラインナップの中で2本とも行きます!スタッフを集めておいてください!」飛びあがった。これで映画を撮れる!』
SNSもブログもない時代、2001年にWEB「カムイズ・ノート」に記載した記事「ある闘い-Movie wars-」の復刻盤ですが、どうせなら…と大幅に加筆改訂しました。内容は1998年頃の話、すでに20年前になり、当時は伏字にした会社名や具体的なやりとりも、すべては「時効」、今なら具体的に書いても問題はないだろうから。個人名はさすがにイニシャルですが。
あと、当時「俺」だった一人称は「僕」に変えました。この歳で公式文面に「俺」はないので。かなり長文になりますのでブログ数回に連載します。長いけど…興味のある方はぜひおつきあいください。
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人生で「山が動いた」と感じた瞬間が何度かある。
映画を撮りたければ大手映画会社で企画を通すしかない。歌手になってCDを出したければ大手レコード会社と契約するしかない。その中間はない、まだまだオール・オア・ナッシングな時代のお話。
1997年の暮れ、レギュラーで入っていた深夜ドラマ「真・女神転生デビルサマナー」の最終回収録を最後に俳優を引退。脚本・監督映画の実現に向けて動き出した。順調に仕事が続いていた俳優を突然引退としたのは「退路を断つため」だ。「俳優が自分が主役をやりたいために映画を作りたがっている」と思われたくなかったのもある。本気で「作り手側をやりたい」とアピールするため。
あるいは「常に受け身である」という俳優という職業上の性質に限界を感じたから。ゼロから、企画から関わらなきゃ、本当にやりたいことは一生できないかも知れない、そう感じたのが最大の理由だった。
※その後、すぐにマネージャーの「その活動に差し障りない程度の仕事量で続けていればいいじゃん。現場に出ながらのほうが、映画関係者とも引き続き会えるわけだし…、企画の話もできるじゃん。」という軽~い言葉に「なるほど。それもそうだ」となって、完全引退は撤回した。
翌年、1998年は激動の年になった。
書き下ろした「JIGSAW」という題名の映画脚本を手に、まずは二人の仲間を集めた。ひとりは俳優М。もうひとりは俳優だがプロデューサー志望のT。三人で作戦を練り、最初は、知り合いの「投資仲人会社」を頼った。一般の投資家を相手に「映画への投資」をアピールするのだが、「その映画に投資したら、私はいくら儲かるの?」と聞かれたら、当然、答えようがない。今のようなクラウドファンティングなんて概念もない。インターネットもないから、投資者への還元は単純に興業収益から捻出するしかない。到底無理だった。この作戦は早期に頓挫。
しかし、上記のルートから、当時「リング」等の映画製作に乗り出していた「オメガ・プロジェクト」のT社長につながった。元は一般企業だが、製作する映画の質も良く、映画製作会社としては充分に大手と言えた。
幸い、T社長は脚本と僕らの熱意を認めてくれ「じゃ、月に一回くらい、俺のところに報告に来なさい。」と、直通の電話番号を教えてくれた。その後、確か4~5回は本社の社長室に「活動報告」に行ったと記憶している。これは予想になるけど、数千万円の商売である以上、単独投資でGOは出せないけど、他がなにかしら乗っかってきたら足りない分は乗ってやる。T社長のスタンスは、きっとそんなとこだったと思う。
あるとき、T社長は雑談の中で「例えば、映画館の館主が脚本を気に入っていて、映画化されたら必ず上映すると約束してくれている…なんて話があるだけで企画としては強いんだ。映画館がひとつは決まってるわけだから。どこでもいい。映画館のひとつも決めて来なさい」と、無茶なことを言った。
フィルムも原作もないオリジナル脚本だけで配給が決まるはずがない。誰もがそれはわかっていた。でも、あえて、言う通りにした。
俳優Tと二人で、横浜の伊勢佐木町、黄金町の界隈に向かった。「ジグソー」の脚本ひとつをカバンに入れて。館主のオヤジに事情を話すと「それはお前らの熱意を試してるんだろうな。わかった、つきあってやる。」と、全上映回終了後、近くの中華食堂に連れて行ってくれ、お酒を飲ませてくれた。実に六時間…オヤジと酒を飲んだ。最後は「じゃゼロ号ができたら絶対に呼んでくれ」「わかりました。絶対に。」握手をして別れた。これといった成果なく帰ることになることは最初からわかっていたから、予想外の面白い展開になっただけで、その時は楽しかった。ただ、とてつもなく疲れた。
その間、仲間の俳優たちや業界関係者にも連絡を取り、知り合いルートからの線も探った。
当時、下北沢でしょっちゅう顔を合わせていた先輩俳優の永澤俊矢さんは「神威が映画をやるなら協力する」と約束をしてくれ、企画書に「賛同者」として名前を借りることも快諾してくれた。
そういえば、旧知のプロデューサーはアドバイスとして「神威さん、俳優なんだから、俳優ルートから切り込んでいくのも手じゃない?」と言ってくれた。確かにその手もある。
そんな会話を聞いていたかのように「それでもワインが好き」というスペシャルドラマの現場で会った白竜さんは「俺や翔ちゃん(哀川翔さん)が『これやる』と東映に企画出せば、そんなのすぐに通るんだよ。脚本読ませてよ。ブラックコメディみたいなのないかな?」と言ってくれた。翌日の撮影現場ですぐに脚本を読んでいただいたが、痛快アクション物の「ジグソー」は、白竜さんが求めるモノとは違ったようだった。後になって、もしあの時、この後に書くことになる「モーテル」の脚本だったらもしかしたら?などと考えたこともあった。
結局、今思うと「俺たちは業界の人間なんだから、なにか巧い方法があるはずだ」なんていう驕りが邪魔をしていたのかも知れない。
初心に帰った。次の作戦は、まったくもって王道。大手映画会社(日活・東宝)に脚本を送りつける作戦。映画を撮りたいと思う多くの人が、本当に多くの人がやっていることと同じ。大手に加え、十ヵ所くらいの中堅製作会社にも同様に送付した。
しかし、毎日大量に届くであろう売り込み脚本を、まず読んでもらうだけでも奇跡に近い。だから「毎日、電話した」。
「神威と申します。脚本、読んでいただけましたか?」「いえ、読んでません」「届いてますか」「確認します。なにかあったら連絡します」…を、連日繰り返した。根負けした担当者が「しょーがねぇなぁ、読んでから断らないと、こいつ諦めないわ」と思わせるためだ。携帯なんてないから、公衆電話からの電話と自宅留守電のチェックを、三時間に一回のペースで繰り返した。
正直、この作業だけで相当メゲる。テレアポ営業と同じ。邪険にされるのが普通な中でお伺いの電話をかけ続けるのだから。
この段階で、ひとつめの「山」が動いた。
留守番電話は東宝の企画室からだった。「脚本読みました。面白いと思います、一度、お話を伺いたい。」東宝の担当者の言葉を夢心地に聞いた僕は、俳優Tとともに東宝本社に向かった。さらに驚いたことに、受付で案内された先は、本社の中でも奥の奥にある、企画部長の部屋だった。
薄汚い恰好をした無名俳優二人が、脚本を手に、奥までズンズンと進んでいった。「誰だ、こいつら」という視線を浴びながら、胸を張って歩いた。これは気持ちが良かった。
その時、僕の頭の中では「ロッキー」のテーマが流れていた。
(つづく)