話題のハリウッド感動系映画には、原則として興味の薄いカムイですが…。
SNSで、大の大人がこぞって「泣きまくった」という感想。ちょっと尋常じゃないレベルの反響に「なにがあるんだ?」と気になって確かめに行ってきた。
はい、号泣しました。そして理由がわかりました。
この映画は「罪と罰」「懺悔と慈悲」のお話。非常に宗教的。フレディはキリスト。同時に、手法としてハードボイルド映画です、これ。この映画の一番良いところは、フレディが最後まで「人間のクズ」だという点。
「みんな良い人」「誰もが幸せ」「よかったね♪」なんて、軽薄なハートウォーミングではないところです。フレディという「偉大な愚か者」を宗教的・哲学的なアプローチで描いている。だから心に響くのです。
▼なるべく簡潔に書きます。ネタバレ前提。
売れっ子となったフレディは、世間から要求されるものを創り出すことのプレッシャーに耐えるため、ドラッグや乱交パーティに溺れた。周りの人間にも常に傲慢で、バンドのメンバーにも一度は愛想を尽かされる。
『傲慢』『色欲』の罪。
性的マイノリティへの理解がなかった当時、同性愛はそれだけで罪とされた。
フレディは「素晴らしい音楽を世界に届けること」という使命に徹していて、その副作用で産まれるプライベートの問題点にさほど興味がない。批判されても決して反省はしない。最後まで反省はしていない。ただ、選択に対する後悔はする。「自分は間違っていた」と気づいたときの修正力は強引で、そのためにまた人を傷つけてでも、正しい方向に軌道を変更する。
家族同然の仲間たちには謝る。但し、自らの行いに対して謝るのではなく、選択の間違いに対して謝る。『懺悔』。仲間たちも、それを許す。『慈悲』
数々の『罪』を犯したフレディは、エイズによる死という『罰』を受ける。
この世を去ったフレディだが、世界に素晴らしい音楽を残した。
最後までフレディはフレディのまま。
以上。
フレディは人間が生まれ持つ「原罪」のような存在で、罪による罰を受け十字架にかかり、自らの死と引き換えに「救い(楽曲)」を世に残した。
フレディはキリスト。アメリカでヒットするのも当然な構造ってことかも。
誰もが身に覚えにある、自分たちの中に潜在する「原罪」をまざまざと見せつけられるから、僕らは半ば意味もわからないまま、号泣するのです。
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そして、大事なお話。
この映画は間違いなく「ハードボイルド」です。
数々の罪を犯し他人を傷つけたフレディに対して、映画は一切、批判していません。登場人物は彼を批判するけど、映画全体として批判はしていない。
ただ、あるがままのフレディのイキザマを描き、そんな彼を許す仲間たちも描く。「罪を憎んで人を憎まず」…人間のひどさ、愚かさを描きながら、最終的に慈悲の念で迎えること。それによって逆説的に「人間の温かさ」を浮彫りにする。
「絶望」を描くことで「希望」を際立たせる。
少し、ボヘミアン・ラプソディから話がそれますが…、
カムイのハードボイルド論▼
例えば、部屋の白い壁に、白いマジックで「希望」と書いてあるとしましょう。そのままでは見えません。そこで、希望と書いてあるあたりの周辺に、円を描くように銃弾を撃ち込むのです。一発一発では希望は見えません。なにもない箇所にただ穴があく…「絶望」が見えるだけです。でも、最終的には、壁に円が出来て、それによってド真ん中にある「希望」の位置を示す。希望を描かずに希望を見せる…それがハードボイルドの手法です。
それで「希望」が見えない…「絶望」しか見えない…というなら、それは、想像力と感性の欠如、と言い切ってしまいます。
なぜこんな話になったかというと、世間で評価されている『ボヘミアン・ラプソディ』が、ハードボイルド映画だ!とわかって、ハードでボイルドな神威としては、とても嬉しいのです。
『ボヘミアン・ラプソディ』は、フレディを「神」「創造主」のように描く宗教的な感覚と、人間臭い「匂い」を全面に出すハードボイルド手法が混在して生まれた大傑作というお話。
▼以前に書いた「ハードボイルドの定義」みたいなブログです。 www.kamuin.com