そんなもの作ってしまって大丈夫なのか?と思う。
「歳をとるのはクソだってことか?」
「そういうことになるな。」
20年前に彼らが言っていたことが本当だとしたら、スクリーンにはどんなクソが出てくるの?ってことになる。
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1996年「トレインスポッティング」公開。当時、映画の内容自体は、なんだかメチャクチャ弾けたヒドイ話だなぁと笑ってただけで、特に名作とは思わなかったし、特に好きというわけでもなかったけども。
それでも、当時の若者文化全体が「世界が変わっていく」「俺たちも変わっていける」という何の根拠もない漠然とした希望に包まれていて、映画のポスターや音楽が、まるで時代の代名詞のように輝いていたことは覚えている。
▼当時。三軒茶屋中央劇場にて。腕組みはポスターの真似をしてるつもり。
しかしそもそもこの映画って…、
社会の底辺オブ底辺、救いようのない物語の中に、「若さ」と云う絶対的な強みがあるから、まだ見ぬ未来という卑怯なモノを持っているから、いろんなことがシャレになって、ラストシーンにはかろうじて希望を見出すことができたのです。
財布の中に30円しかなくても女を口説けた頃、彼氏や彼女に浮気がバレても逆ギレすればなんとかなった頃、ですね。
そこで、20年後のリアルな彼らが登場するなんて。「若さを喪失したトレイン・スポッティング」なんて、作って大丈夫なの?なんですよ。
いや~きっとヒドイことになるんだと思うのです。
脚本によってはならないようにも作れるだろうけど、それじゃトレインスポッティングではなくなってしまうし、チラッとあらすじを読んだ限り、案の定、ヒドイことになってるようなのです。底辺でうごめいていた最低男たちは、歳をとっても底辺をさらに深く掘り進んでいるだけで、中身はなにも変わっていない。そんなストーリーらしいのですね。
救いようのない物語が、本当に救いようがなかったら、それはキツイ。
増してや「年月の残酷さ」なんてことにわざわざスポットライトあてて大丈夫?
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前作「トレイン・スポッティング」は最近CSで再放送があったのであらためて観たのですが、面白いセリフは随処にあるのです。
レントンと高校生の彼女・ダミアンのベッドでの会話…。
「ジギー・ポップってもう生きてないよね?」というダミアン。
「イギー・ポップだよ。それにまだ生きてる。去年もツアーをやったよ。」というレントン。
イギー・ポップの名前さえ間違う=過去などもう忘れていい=「世の中は変わっていく。自分たちも変わっていかなきゃ」という彼女の意識と、イギー・ポップ最高=「変わる気ゼロ」のレントン、ふたりの意識差を良く表していたり。
「1000年後には性別も関係なくなっているだろう。」というセリフは、ジェンダーの壁が崩れつつある現在をしっかり予言しているし。
続編の予告編で「FacebookもTwitterもインスタグラムも、みんな中毒だ。ドラッグと同じ。みんななにかに依存しているんだ。」なんてセリフを聞きました。確かにそうです、その通り。でも、今はまだ、そこに噛みつくのはあまり得策ではない。いまやインターネットがイコール世界だから、そこに噛みつくと「社会が悪い」と叫んでいる飲み屋の親父と同じに見られてしまう危険性がある。負け犬の遠吠えに聞こえてしまうってことですね。実際はそうじゃないんだけども。
第一、それくらいのことは皆もうわかっている。僕ら全員が、インターネット社会の依存症患者にされたことは既にみんなが自覚しているはずだから、そこを叫んでも得はない。いくらクソだと思ってても。
だから、映画の中でユアン・マクレガーがそう叫んでいても、あまりカッコよくないんですね。カッコ悪い狙いでそう言わせているのかも知れないけど。
と考えると「T2 トレインスポッティング」の存在意義が見えないのです。監督がどんな想いで、今、続編を作ったのか。作るタイミングは今でよかったのか?とか。
いや、まだ観てないので、まったく予感だけで書いているのですが、観たら全然違った感想になるかも知れないのですが…。
いろいろ確かめたく…。
観に行こうか。
いややっぱり観るの怖いからやめとくか。
(翌日追記)
▼といいつつ観ちゃいました。予想通りキツイ部分はキツイですが、面白かったです♪詳細こちらに書きました。